飛騨照見窯の器への思い 2012年5月10日のFacebookより
かつてFacebookに書き溜めていったものを
自分の備忘録も兼ねて、こちらに転載しました
巻末に、今の長倉の思いを書き足しております
徒然なる時にでも、お読み頂けたら幸いです
では、どうぞ
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飛騨照見窯のページを開設しました。
気軽にご覧頂けたらと思います、宜しくお願い致します。
さて、照見窯を立ち上げる前のおよそ10年間、僕は父の窯元で働いていました。
その頃から、仕事の合間をみては自分なりの作風を模索していました。
それは白を基調として料理が盛りやすく、収納等の機能性もあり、尚且つ値段も手頃な器。
言うなれば女性の器を目指していました。
今日でも台所に立つのは女性が多いからです。
一口に女性の為の器と言っても、具体的に形にするのは容易ではありませんでした。
白を基調と言ってもどんな白にするのか?、そんな技術的な問題もありましたが。
それ以上に使いやすい器って何だ?という壁の方が大きかったです。
ロクロというのは、修練をしていけば器の形を作ることはできます。
ですが、真に使いやすい器と、器のような形をした器モドキを作り分けるのは、技術ではありませんでした。
どうすればいいのか?、そこからが本当の修行だったと思います。
一番勉強になったのが、台所に立つ女性に聞くことでした。
多くの女性は、焼き物をみてそれが何焼きであるとかという知識はご存知ない方が殆どです。
ですが器を一目見て、これが使いやすいかそうでないかを瞬時に言い当てる知恵をお持ちです。
真に良い器は、見た瞬間に料理が盛られた姿が何品か思い浮かぶそうです。
もうちょっと深ければ、もうちょっと広ければ、、、。
そのもうちょっとの差が、器として使いやすいか否かの大きな差になることを、多くの方に教えて頂きました
僕が一点からでも特注をお受けするのは、そのもうちょっとを教えて頂いてると思うからです。
こんな話を長々と書いたのは、引越しで新工房にやって来た見本を、今ひとつひとつ整理しているからです。
10年間とはいっても、仕事の合間にこつこつ作ったものですから、時間で言えばそこまでのものはないのかも知れません。
ですが時間に限りがあったからこそ、一回の窯焚きがどれだけ僕にとって密度の濃いものであったか。
この見本達が初心を思い出させてくれました。
これを照見窯としてどう未来に繋げていくのかが、これからのぼくの課題です。
2012年5月10日 Facebookより
現在(2021年) の長倉の言葉
飛騨照見窯を立ち上げてから、2021年で11年になります
この文章を読むと、それよりも更に前の10年間に渡って
僕は、真に使いやすい器の探究と
今に続く「粉引(こひき)」と呼ばれる技法と対峙していた事になります
独立前から取り掛かっていたことは覚えていましたが
そんなに長い年月をかけていたとは、すっかり忘れていました
記録するというのは、とても大切な事ですね
「粉引き」の解説は、また別の機会に譲るとして
こうして振り返ってみると
当時の僕は「自分の武器」が欲しかったように思います
武器なんていうと、いささか物騒ですが
バブル崩壊とほぼ同時期に焼き物の世界に入り
作れば売れるという時代が徐々に終わりを迎え
焼き物の世界にも、新しい価値観が生まれつつあった、その最中
生き残る為というか、時代に取り残されない為と言いますか
長倉らしい、何か「特徴」が欲しくて、兎に角もがいていた
そんな時期だった気がするのです
当時はどこかまだ、勝負をかける対象が同業者に向けられていて
その中には、もしかしたら父親も入っていて・・・
使い手さんに寄り添う器作りに至る、過渡期だったのでしょう
その後、独立して
少しずつ、目線が使い手さんの方に変わるにつれ
作る器にも、長倉らしさが出て来たように思います
流石に今は、一点からの特注をお受けする事は減りましたが
こうして今も焼き物を続けていられるのは
まさしく、あの頃があったから
そう、読み返して思うのでした
2021年10月24日
飛騨照見窯・長倉けん
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